はじめに
宮崎市定 1963.5月 中公新書15
中国の(主として完成した清期末の)科挙制度について書いた本。
科挙について
まず本番の科挙の前に学校試が4回ある。
科挙は学生の身分でなければ受験できない。
ちなみに学校そのものは形骸化しており、授業に出ないで自主勉強のスタンス。
いよいよ受験資格が得られても、本番の科挙試は6回もある。
もっとも形式的な試験回もあり、実質は3回(順に、郷試、会試、殿試)。
(1)郷試
郷試は3年に1回行われる。ほとんど何もない独房にカンズメにされること約一週間。
一切の行き来はできなくなる(死体が出たら包んで上からポイー)。
試験官も同様にカンズメ。
その間受験者は自炊したり仮眠しながら回答を作成しなければならない。
そして極度の緊張からか発狂する者、幽霊を目撃する者も出る。
幽霊に関しては、会試、殿試よりも出る確率が高い。
幽霊にとっては外界から隔離された空間で恨みを晴らすのに絶好の機会なのだそうだ。
特に淫行したりした者によくバチがあったという(科挙そのものは無料だが、受けるには経済負担がともなう。金持ちの青年が陥りやすいのが淫行だったためそのような話が多い)。
採点も工夫がなされていた。
名前を伏せ座席番号のみで採点したり、筆跡から本人の特定ができないように試験官の方で全て書き写したものを使って採点したりなど。
(2)会試
会試は郷試の翌年。
これもまた約一週間にわたる。
本来の科挙はここ。
出題もやや多い。
(3)殿試
殿試は天子が直接行うのだが、天子によって真面目にやったり臣下に任せてテキトーにやったり天子の自由だったらしい。
そもそも試験官と受験合格者との間に師弟関係が生まれる風習を天子が改めようとして(派閥が生まれないよう天子が師、合格者は弟子)生まれた制度。
(4)関連する試験
武科挙というものもあったが、社会的にも実力的にも低かったようである。
軍隊では一兵卒から実践を経て手柄をたてた将軍がやはり実力があったようだ。
清朝初期に戦乱で科挙を受けられなかった知識人を集めようという名目で、特殊な才能を発掘する制科という仕組みもあったが、科挙出身者によって潰された。
(5)小歴史
科挙を始めたのは隋だった。
これは当時の貴族社会を打破しようと天子に権力集中するよう官僚を配置するためであった。
唐中期以降、進士(科挙出身者)も多くなり貴族の子弟も科挙を行うようになった。
宋代では生産力が大幅に上がりブルジョワ階級が出てきた。
印刷術も向上し、全国から受験者が集まった。
科挙のメリットとして、文治政治(特に軍事に関して)が敷かれた。
宋代は戦争の記録自体少ないという。
おわりに
日本の大学受験なんてまだまだ簡単な方だと痛感。
学生時に読むべきだった。
「科挙」制度を知っていればもっと勉強も頑張れたはず…。