はじめに
歴史初心者向けに横山光輝著『史記』をおすすめします!
なぜ横山版『史記』なのか?
横山版『史記』は、歴史に初めて触れる人にとって最適な作品です!
その理由は次の3つ挙げたいたいと思います。
(1)マンガなので頭に入りやすい点
文章だけの本よりは、マンガの方がとっつきやすいです。
イメージが湧きやすい。
作品の性質上、どうしても登場人物が多くなるので、複数人の会話シーン等ビジュアル化した方が圧倒的に分かりやすいのです。
(2)複眼的視点を得られる
『史記』以前にも歴史書ありました(『春秋』、戦国策』など)。
『史記』は画期的だったのは、「紀伝体」と呼ばれる人物中心の描き方で書かれてたことです。(「紀伝体」で書かれた初めての歴史書。)
「紀伝体」は、私たちが普段よく目にする、出来事が起きた順に記載していく方法「編年体」と対になる概念です。
「紀伝体」は、同じ事柄(事件)について何度も扱うことになり煩雑になりますが、より重層的・複眼的な内容を盛り込むことができます。
まるで群像劇のように、同じエピソードでも視点が違えば、異なる物語として捉えることができる優れた記述方法なのです。
ちなみに『史記』以降、王朝が交代するたびに(※厳密には異なる場合もありますが)前の王朝の歴史書が書かれるようになります(これを「正史」という)。王朝の正当性を権威づけるのが目的。
「正史」では採用されたのは「紀伝体」でした。
こうした意味でも『史記』の影響力は高かったのです。
(3)故事成語の成り立ちを知ることができる
「故事成語」は、昔あった出来事や文章に由来する言葉のことです。
『史記』には、故事成語の元ネタやエピソードが豊富にあります。
会稽の恥、左袒、背水の陣、狡兎死して走狗烹らる、完璧、奇貨居くべし、王侯将相寧んぞ種あらんや、嚢中の錐、臥薪嘗胆、刎頸の交わり、中原に鹿を逐う、馬鹿etc
この故事成語の成り立ちを知ることで、より一層記憶に残るはずです。豆知識にもなるし。
また、中国・日本の古典でも時々引用されているので、知っておいて損はないです。
横山光輝さん
いわずと知れたマンガ家ですが、一応確認しましょう。
『鉄人28号』、『三国志』、『魔法使いサリー』、『バビル2世』、『伊賀の影丸』や『徳川家康』など多彩なジャンルを描いてる日本マンガの黎明期から活躍されている大先生です。
そんな中、横山版『史記』は1992年〜1999年に、小学館『ビッグゴールド』に掲載されビッグゴールドコミックスから全15巻(+列伝1巻)出ました。
ワイド版や文庫版も出ているなど、長年にわたって繰り返し発行されているので、それだけ愛されている作品といえるでしょう。
『史記』の内容
『史記』は、簡単に言えば古代中国の歴史書です。
伝説的な時代から前漢(武帝が統治した頃)までの歴史を記載しています。
※伝説的な箇所は後世付け加えられたようです。横山版『史記』では伝説的な箇所は省略し、実在の人物のエピソードから描いています。
『史記』の構成は以下の計130編。
(説明はwikipwdeia「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98」から抜粋)
本紀12篇 | 帝王の記録で、主権者の交代を年代順に記したもの |
表10篇 | 歴史事実を簡略化し、表で示したもの |
書8篇 | 政治に関する特殊なテーマごとに、記事を整理したもの |
世家30篇 | 諸侯の記録をその一族ごとに記したもの |
列伝70篇 | 各分野に活躍した人物の行いを記したもの |
「本紀」では、皇帝、王を中心に書かれています。
ただ、時期によっては皇帝、王よりも実権を握っていた人物がいたりして、その人物を取り上げていることもあり、司馬遷のリアリストな面が垣間見えます。
また、「列伝」では将軍や有力者などに限らず、酷吏(過酷な刑罰を行なった官吏)や商人を取り上げているなど多彩な人物が取り上げられているのが特徴的です。
「本紀」と「列伝」から「紀伝体」と呼ばれるようになったらしいです。
作者:司馬遷についての概略
『史記』の作者は、司馬遷(しばせん)です。
司馬遷(しばせん)は、前漢(紀元前202~紀元後8)の龍門(今の陝西(せんせい )省)出身の歴史家です(紀元前145年?~紀元前86年頃?)。
60歳前後で亡くなったと考えられています。
ちなみに大昔の人なので、具体的な存命期間は不明です。
ただ、前漢の武帝が亡くなった時期に前後して、司馬遷も亡くなったと言われています。
ちなみに日本だと、弥生時代くらいにあたるかと。
司馬遷の少年・青年期
司馬遷の父は司馬淡(しばたん)といい、漢王朝に仕える、主に暦を司っていた文官(太史公)でした。
そんな文官である父を持つ司馬遷は、
10歳で古文を誦し、
20歳の時に各地を旅し見聞を広め、
22歳の時に侍従見習い(郎中)につき、
35歳のころ巴蜀地方を周遊し見分を広めたとされています。
受け継がれた思い
ところで、当時の皇帝である武帝は、国庫に宝物が溢れるほど国力が安定し、権勢を振るっていた。
そこで、皇帝の威光を示すために「封禅(ほうぜん)の儀」という儀式を行うことになり、父司馬淡は、俄然張り切って準備に取りかかった。
「封禅の儀」とは、帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式のこと。
秦の始皇帝が「封禅の儀」を執り行ったとされるが、秘密裏に行われたため残っている資料が少なく、秦よりもさらに古い時代の資料に、当たらざるを得なかったらしい。
しかし、張り切り過ぎた司馬淡は、「封禅の儀」を執り行う直前で倒れてしまう。
36歳の時、仕事で地方に出ていた司馬遷は、父の危篤を知り、急遽父のいる洛陽に戻る事になった。
父の臨終の際に間に合った司馬遷は、あることを託される。
司馬家は昔、周王朝(秦よりも前の王朝)の歴史官であった。
その意思を引き継ぎ、王朝の歴史を書いているのだが、まだ未完成だ。
息子(=司馬遷)の手でどうか完成させてほしい。
「孝」(=親孝行)は、子供を得ることと一般には言われているが、
『孝経』の言葉に次のような言葉がある。
「孝は親に事(つこ)うるに始まり、君に事うるに中(ちゅう)し、
身を立て名を後世に揚げ、以って父母を顕わすに終わる。これ孝の大なる者なり。」
つまり、大きな業績を残すことで、父母の名を後世まで残すことで「孝」としてほしい、と託された。
司馬遷は、歴史書を完成させるという意思を引き継いだのであった…。
完成までの苦難の道のり
しかし、そのまま順調に『史記』が完成したわけではないのだった。
父の死から3年後、司馬遷は父の意思を継ぎ、暦を扱う文官(太史公)になった。
そして仕事をしながら、42歳の時に『史記』を書き始めたといわれている。
その後、暫くは順調に作成を進めていたが、司馬遷が47歳の時にある事件が起きる。
当時の漢王朝は、「匈奴(きょうど)」という騎馬民族に長年悩まされていた。
漢王朝成立以来、貢物を送って和平工作(朝貢)をしていた。
にもかかわらず「匈奴」は、食糧がなくなると、漢の領土に侵入し略奪をする有様だった。
武帝は国内も安定していたため、武力をもって「匈奴」に対抗するよう方針変換。
そこで、「李陵(りりょう)」と「李広利(りこうり)」らの武将に命じて匈奴討伐に向かわせた。
「李広利」は武帝お気に入りの武将だったが、武功を挙げることはなかった。
一方「李陵」は、匈奴の大軍7万人にわずか5千人で善戦する。
勝利の度に朝廷内も沸き立っていた。
しかし、多勢に無勢。
李陵軍は、遂に武器が尽き、退却したんだが李陵は捕まってしまう。
李陵は降伏し、経緯は不明だが匈奴の王に仕えることになった。
このことに武帝は大激怒。
武帝のあまりの激怒に、周りの臣下は黙ってしまう。
一方、司馬遷は少人数で匈奴に善戦した李陵を弁護した。
李陵は隙を見て、匈奴から逃げるつもりではないかと。
しかし、武帝の逆鱗に触れてしまい…
なんと死刑を言い渡されてしまう!
弁護しただけで死刑はちょっとやりすぎな気がするが、武帝には司馬遷の言葉が次のように聞こえたのかもしれない。
大軍を率いる李広利に、李陵を助けるよう命令しなかったのは武帝の失策だったのではないか、と。
つまり自分のミスを責められたように聞こえてしまったのかもしれない。
さて当時、死刑を免れるには2つの方法があった。
大金を支払うか、宮刑を受けるかのいずれか。
宮刑とは、去勢、つまり男性器を切除する刑罰だ (腐刑ともいう)。
「家系繁栄を重んじる中国で子孫ができないことは重い恥辱」とされていたらしい。
ただ、死刑を免れるための大金は文官の生涯賃金の100倍とされていたらしく、とても司馬遷が出せるような金額ではなかったとされている。
考えに考えた末、司馬遷は宮刑を選んだ。
歴史書を完成させるという使命があるから、生き恥を晒しても生きようとしたのかもしれない。
その後、武帝は司馬遷の処遇を後悔し、新たな官職(中書令(ちゅうしょれい):宮中の文書を扱う)につけるぜ。
この時司馬遷50歳。
司馬遷は、国庫に保管されている文書を利用し、書き始めてから、足かけ約14年という長い年月をかけ、55歳の時に歴史書を完成させる。
副本を設け、1つを手元に置き、1つを名山に収める。
そして、完成した歴史書の評価は後世の人に任せると書き残した。
これこそが後世『史記』と呼ばれる書物である。
おわりに
『史記』を語るにあたって、よく引き合いに出される言葉がある。
「天道(てんどう)是(ぜ)か非(ひ)か」(伯夷列伝 第一)。
天道(=運命)は本当に正しいのか?という意味だ。
悪逆非道の盗賊の親玉は天寿を全うしたが、正しい行いをした人は餓死して死んだ。
本当に天道は、善人に味方するのか?
司馬遷は『史記』の登場人物を通じて自らの悲憤を語りかけてくる。
そして『史記』が単なる歴史書ではなく、文学的な側面からも評価されるのは、司馬遷の思いが反映されているからかもしれません。